No174

萌銅版画 萌×制服×日本円 4作目

刷りを終えて感想を言えば、No174は萌えキャラと紙幣をモチーフにした銅版画制作における分岐点になると感じています。

非常に多くの経験と成長を感じました。

No173までの萌銅版画と、No174からの萌銅版画とでは質が変わってくるかもしれない。

銅版画の制作に対して、意識が変わったような気がします。

体力を、命を、魂を削るような制作意識に変わってきました。

そして、自分が凡人だという自覚。

意識が変わって、より具体的な変化がありました。

「彫り」「研ぎ」「刷り」のエングレーヴィング技法における大事な要素がそれぞれ一段階変化したというか、大きな気づきがありました。

なんとなくの感覚で終わっていたところを、壊すような変化を生むような積極性がでてきました。

 

①彫りについて発見したこと

「エングレーヴィングの線は均一でない」ということです。

鉛筆やペン、エッチングの線は均一な幅の線を描く。しかし、エングレーヴィングの線は弱線から強線になっていく。

これはエングレーヴィングの線描画が、「描く」ではなく「彫る」だからだ。

銅板に刃先を食い込ませ、刃を滑らせて溝を作るという三次元の動作が、一本の線に弱線と強線の変化を確実につくる。

線に強弱がでるのはエングレーヴィング独特の性質だ。

それを、今になって理解したような気がする。

この性質を生かせば、銅版画は強烈な魅力を発する。

逆に殺してしまえば、エングレーヴィングの銅版画は魅力を大きく失ってしまうだろう。

実物の紙幣の拡大。内部の彫りで、左から右に欠けて曲線を描いて線が彫られている。

弱線から始まり、強線で終わっている。

線の強弱が微妙な明暗を表現している。

このやり方がまさに、エングレーヴィングの性質を生かした表現だ。

 

今回の萌銅版画では、内部の彫りのすべてでそれを意識した。特に、「NIHONGINKO」の内部のトーンがわかりやすいかもしれない。

下から上にかけて弱→強の交錯線で彫ってある。下から上に向かって微妙な変化がでてきている。

ここも、中心から外側にかけて弱から強。

実物の彫りを一切無視しているから、紙幣によせるという本来のコンセプトから脱線してしまったが、それは今回はもうどうでもよくなった。

弱→強の変化のルールを意識して彫ると、質が変わる。

 

萌キャラの彫りで重要な目。

これも下部分から上にかけて弱→強。

瞳の下部分の反射光は点描。

弱→強で処理したおかげて柔らかいトーンになる。

 

髪は強い黒で表現する。

太い刃で太い線を彫り、その間を細い刃で彫りこんでいく。

 

左の透明な板は、定規。

線の間隔は1ミリ幅。

だいたい1ミリの間隔に4~5本の線が彫られている。

弱→強のルールは、肌の表現でも生きる。

柔らかい階調は肌の質感を表現するのに重要になる。

エロさが生まれる。

線の弱強の階調。線の終わりを強が締めるのでエッジが生きる。エッジが生きれば全体で見たときの印象が変わる。

②「研ぎ」の発見

かれこれエングレーヴィングを7~8年やり続けて、初めて気づいたことです。

「引いて研ぐ」ということです。

多分これは包丁や刀など、すべての研ぐという行為の基本なんじゃないかと思いました。

いままで、押して研いでいました。それは間違いで、それを気づくのにこれだけ長い期間がかかった。

刃の側面を人差し指で押して研ぐと、刃先が歪んでしまう。

引いて研ぐことで平坦に研ぐことができる。

明らかに研ぎの質が上がり、かつ楽になった気がします。感覚で納得できました。これが正しい研ぎ方です。

ほとんど独学で学んだため、こんな致命的なミスを続けていました。学生時代に教えてくれよ。こんなことは。でも教えられるような人、いなかったよ多分。

曲線の連打。

エングレーヴィングの彫りの十八番。

全体の左側部分は、今までならしなかった彫りです。

紙幣によせていくということで、多分直線を彫って一面を作り済ませていたと思います。

自分自身が凡人なんだと、そう自覚することで現状を打開したいという思いからこのような彫りになった。

 

線の弱→強。

線の行く先にアウトラインのエッジがあればそこで締めることができるが、それがない場合このようにその場で突き刺して強制終了する。

これはちゃんと計画しないと、事故る。

胸部の服の部分だが、微妙な明暗で処理に迷ったからこうなった。

 

製版の段階で、これは質が違うと思ってました。

命を削って作るという感覚があります。

製版 終

表面の研磨

③「刷り」の発見

制作の意識が変わり、製版の質が変わった。

そうなると最近の刷りの質の悪さが非常に気にかかってきた。そこで、刷りを修正した。

いままでの刷りは、消耗品のインクやふき取り布を節約するため、刷り時間の短縮などを考慮して、ゴムヘラで直接インクを詰めるスタイルでした。これで萌銅版画のほとんどは刷ってきて、問題なくできていたが、刷りの枚数が増えてきてから質が不安定になってきた。

そこで、基礎に戻ってローラーを使用しました。

インクを台で練り、ローラーで広げ、版に平坦にのせる。

版にのせたインクをゴムヘラで詰め、ふき取る。

この基礎的な刷りをかなり久しぶりにしました。

結論から言えば、これ以外に刷る方法はない。

安定した質の刷りを行える。というか、抜群に刷りの質が上がった。ローラーの洗浄やもろもろで消耗品が多くなったり時間がかかったりするかもしれないが、これ以外に刷りの方法はない。そう確信しました。

インクは悪くなかったです。自分が悪かったです。

版の表面にローラーでインクをのせた状態。

インクが詰まっているわけでなく、のせてあるだけの状態。

微妙に絵が浮き上がっている。

ふき取り、プレス機へ。

これが、魂を削り制作するということだと思います。彫り研ぎ刷りの質が上がることで、銅版画そのものの完成度がけた外れに上がる。

今までの萌銅版画が工業製品に感じられるほど今回はバツグンに良く、絵画としての版画になっている。

 

線も、しっかりでている。途切れがない。かすれていない。

しっかり刷れている。

かわエロい。

最高ですよ。これは。

このために萌銅版画を作る。このために生きている。

 

魂を削り、銅版画を制作する。

いつしか、生活のためにだったりお金のためだったり、そういったことが制作の意識を縛ってしまっていたような気がします。より合理的に、より効率よくといったことが強く意識されてしまいました。

作るために魂を削るという、非合理なことがなにより重要でした。

この完成度では、手押しはんこは野暮だ。

手を加えるのは気が引ける。手を加える必要はない。

魂を削った萌銅版画は、自分自身も引き付けられるし、他人も引き付けられると思う。

魂を削って制作すること、それが最も大切なことだとおもいました。